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承認欲求はみっともない?「認められたい」の正体とその奥にあるものとは

SNSで自分の実績を何度も投稿する人。
「いいね」の数を気にしている人。
誰かに褒められた話を何度もする人。

そんな様子を見て、「承認欲求が強いな」と感じたことはないでしょうか。

最近では、「承認欲求」という言葉そのものが、少し否定的な意味で使われることも増えました。

「承認欲求が強い人はみっともない」

そんな言葉を目にすることも少なくありません。

でも、よく考えてみたらこれって少し不思議ではありませんか。

本来は、誰だって認められると嬉しいものです。

仕事を頑張って褒められれば嬉しい。
大切な人から感謝されれば嬉しい。
努力を「よく頑張ったね」と言ってもらえれば、少し救われることもあります。

では、私たちは本当に「認められたい」という気持ちそのものを、みっともないと思っているのでしょうか。

今回は、「承認欲求はみっともない」と言われる理由を入り口に、私たちが本当に求めているものについて考えていきたいと思います。

目次

承認欲求は「みっともない」と言われることがあるのはなぜ? 

「認められようとしている」姿が見えるから 

「承認欲求が強い人」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、「認められたい」と願っている人ではありません。

何度も自慢話をする人。
SNSで過剰に自己アピールをする人。
他人より優れていることを繰り返し伝えようとする人。

そうした姿を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

つまり、私たちが違和感を覚えているのは、
「認められたい」という気持ちそのものではありません。

その気持ちが前面に出ているように見える振る舞いです。

例えば、子どもが「見て見て」と言いながら描いた絵を持ってくる姿を「承認欲求が強くてみっともない」と感じる人はあまりいません。

あるいは、頑張って作った料理を家族に褒めてもらいたいと思うことなんかも、ごく自然なことです。

一方で、これが大人になると少し印象が変わります。

「評価されたい」
「すごいと思われたい」

こういった気持ちが強く見える人を目の当たりにすると、どこか居心地の悪さを覚えることがあります。

だから、「承認欲求はみっともない」という言葉が使われることがあるのでしょう。 

私たちが見てどこか違和感を覚えるのは、本来「承認欲求」そのものではなく、「認められようとしている姿」なのです。

私たち自身にも承認欲求があるから気になることもある 

「承認欲求」という言葉は、単なる欲求を表す言葉というより、人を評価する言葉として使われることがあります。

なぜでしょうか。

その理由の一つは、評価する私たち自身にも「認められたい」という気持ちがあるからです。

誰かに認められたい。
頑張りを分かってほしい。
必要とされたい。

程度の差はあっても、多くの人がこうした気持ちを持っています。

だからこそ、その欲求が強く表れている人を見ると、自分の中にもある感情が刺激されます。

「自分はああはなりたくない」

これは単に相手を否定しているというよりも、

「自分も一歩間違えれば同じようになるかもしれない」

という感覚に近いのかもしれません。

だからこそ、「承認欲求」という言葉には、どこか他人事ではいられない響きがあるのでしょう。

承認欲求そのものは悪いものなのだろうか 

認められたいと思うこと自体は自然なこと 

ここまで見てきたように、問題なのは承認欲求そのものではありません。

認められたいと思うこと自体は、とても自然な感情です。

例えば、仕事で時間をかけて取り組んだことを評価されれば嬉しく感じます。

誰かの役に立って「ありがとう」と言われれば、また頑張ろうと思えることもあります。

心理学者のアブラハム・マズローも、人には「承認欲求」があると考えました。

他者から認められたい、自分には価値があると感じたいという欲求は、多くの人が持つものだとされています。

実際、こうした気持ちがあるからこそ、努力を続けられることもあります。

誰かの期待に応えたい。
成長したい。
役に立ちたい。

こういった思いまですべて否定してしまうと、人は、前へ進もうとする力まで失ってしまうことでしょう。

承認欲求そのものを悪いものと考える必要はありません。

問題なのは、「認められたい」という感情ではなく、その感情が自分の価値を決めるほどのものになってしまうときです。

承認欲求が問題になるのは「自分の価値」を預けたとき 

認められることでしか、自分の価値を確かめられなくなる 

認められたいと思うこと自体は自然であるというのは、ここまでお話してきた通りです。

では、この気持ちは、一体どんなときに私たちを苦しめることになるのでしょうか。

私たちは、その境目の一つが、

「自分の価値を他人の評価に預けてしまうこと」

ではないかと思っています。

例えば、仕事で褒められると嬉しい。

これは自然なことです。

しかし、

「褒められたから自分には価値がある」
「褒められなかったから価値がない」

そう考えるようになると、少し状況が変わります。

自分がどんな人間なのかを、自分ではなく他人が決めるようになるからです。

もちろん、人は一人では生きていけません。

誰かに認められることも大切です。

社会の中で生きる以上、評価を受ける場面もたくさんあります。

ただ、その評価だけが自分の価値を決める基準になると、心は少しずつ不安定になります。

評価されれば安心する。
逆に、評価されなければ不安になる。

その繰り返しになってしまうからです。

他人との「比較」が終わらなくなる

承認欲求が苦しくなりやすい理由が、もうひとつあります。

それは、終わらない他人との比較が続いていってしまうことです。

例えば、SNSを開けば、

昇進した人がいます。
資格に合格した人がいます。
旅行を楽しんでいる人もいます。
新しい仕事を始めた人もいます。

もちろん、それ自体は悪いことではありません。

誰かの幸せを知ることが、自分の励みになることもあります。

ただ、人は無意識のうちに、

「あの人はこんなに評価されている」

「それに比べて自分は」

そんな考えを持ってしまうことがあります。

他人との比較には終わりがありません。

収入が増えても、もっと稼いでいる人がいます。
フォロワーが増えても、もっと多い人がいます。
評価されても、さらに評価されている人がいます。

そのため、「もっと認められたい」という気持ちだけを追いかける人は、いつまで経っても満たされないということにもなりがちです。

ゴールを目指しているはずなのに、そのゴールがいつまでも動き続けているからです。

承認欲求に振り回されないために考えたいこと

「承認欲求がある」で終わらせない

ここまで見てきたように、承認欲求そのものは特別なものではありません。

認められたい。
分かってほしい。
必要とされたい。

そう思うことは、多くの人が持っている自然な感情です。

一方で、「承認欲求」という言葉は、とても便利な言葉でもあります。

誰かの行動を見て、

「承認欲求が強いんだね」

そう言えば、一つの説明ができたような気がしてしまいます。

しかし、その一言で終わらせてしまうと、その人が本当は何を求めていたのかまでは見えなくなってしまいます。

そして、それは他人だけではありません。

自分自身についても同じです。

「認められたい」と感じたときに、「承認欲求だから」と片づけてしまうと、その奥にある気持ちまで見過ごしてしまうことがあります。

「認められたい」の奥には何があるのだろう 

例えば、誰かに評価されなかったとき。
思っていたより反応が得られなかったとき。

「もっと認められたかった」

そう感じることがあります。

ただ、その気持ちを少しだけ丁寧に見てみると、そこには別の願いが隠れていることがあります。

努力してきた時間を分かってほしかった。
自分の存在を大切にしてほしかった。
安心できる居場所がほしかった。
必要とされていると感じたかった。

人によって、その中身は少しずつ違います。

別の記事でお話した「努力が報われない」というテーマでは、人は結果だけではなく、「あの努力には意味があった」と感じたいのではないか、というお話をしました。

承認欲求も、それと少し似ています。

本当に求めているものは、「すごい人だと思われること」ではなく、その奥にある別の願いであることも少なくありません。

そう考えると、「承認欲求」という一言だけでは説明できないものが見えてきます。

松果体という視点から見る承認欲求 

「外側の評価」より「内側の感覚」を思い出す 

私たち松果体開花研究所は、この感覚を象徴する言葉として「松果体」という名前を使っています。

松果体は実際に脳の中心付近にある小さな器官です。

一方で古くからは、「第三の目」や「内側を見る視点」の象徴としても語られてきました。

私たちは松果体を特別な能力として捉えているわけではありません。

誰かにどう評価されているか。
どれだけ認められているか。

そうした外側の基準だけで自分を理解しようとするのではなく、

「自分は本当は何を求めていたのだろう」
「認められたい」という気持ちの奥には、どんな願いがあったのだろう。

そんな内側の感覚へ目を向けるための、一つの象徴として考えています。

承認欲求をなくすことが目的ではありません。

その気持ちを一つの言葉で終わらせず、その奥にある自分自身の本音まで見つめてみること。

その視点を持つことで、「認められたい」という感情も、これまでとは少し違って見えてくるのではないでしょうか。

おわりに 

「承認欲求はみっともない。」

そんな言葉を耳にすることがあります。

確かに、「認められようとしている姿」が強く見えると、違和感を覚えることもあるでしょう。

しかし、それは「認められたい」という気持ちそのものを否定しているわけではありません。

誰かに認められたい。
分かってほしい。
必要とされたい。

そうした思いは、多くの人が持っている自然な感情です。

だからこそ、「承認欲求」という言葉だけで、人や自分自身を説明し切ってしまうのは少しもったいないようにも思います。

その奥には、努力を受け止めてほしかったという願いがあるかもしれません。
安心できる居場所を求める気持ちがあるかもしれません。
あるいは、「ここにいていい」と感じたかっただけなのかもしれません。

「承認欲求」という言葉は、とても便利です。

でも、便利な言葉ほど、その奥にあるものを見えにくくしてしまうことがあります。

だからもし、「承認欲求」という言葉が頭に浮かんだときは、一度だけ立ち止まって考えてみてください。

その人は、本当は何を求めていたのだろう。

そして、自分自身に対しても同じ問いを向けてみる。

その視点があるだけでも、「認められたい」という気持ちは、これまでとは少し違う形で見えてくるように思います。

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