好きだったゲームや配信者、作品などに失望し、距離を置いた経験はあるでしょうか。
しばらくしてその名前を見かけたとき、以前と変わらず人気が続いていることを知ると、なぜか少し残念に感じることがあります。反対に、人気が落ちていたり、サービスが終了していたりすれば「やっぱり離れて正解だった」と納得できる気がする。
わざわざ悪口を書きに行くわけではなくても、心のどこかで相手の失敗を待っている。あまり人には話したくない感情ですが、決して理解できないものではありません。
その根底には、自分が抱いた失望や、離れた判断は正しかったと思いたい気持ちがあります。
そして、この感情に「裏切られた怒り」や「失ったものへの執着」、「周囲にも分かってほしい」という欲求が重なると、以前は好きだった対象を激しく攻撃する反転アンチへと近づいていくことがあります。
反転アンチとは、ただその対象のことを嫌いになった人なのでしょうか。
それとも、好きだった対象との関係をまだ終えられていない人なのでしょうか。
なぜ人は見限ったものの失敗を待ってしまうのか
「見限った」という自分の判断を正しいと思いたいから
見限った対象の失敗を待ってしまうのは、自分の判断が正しかったと確かめたいからです。
失望して離れたあとに対象の人気が落ちれば、「自分が感じた違和感は間違っていなかった」と思えます。離れたことにも、見限ったことにも、目に見える根拠が与えられます。
反対に、自分が離れたあとも人気が続いていると、判断を直接否定されたわけではないのに、どこか落ち着きません。自分には受け入れられない問題があったはずなのに、世間はそれを問題にしていないように見えるからです。
「ああ、まだ続いているんだ」という小さな失望には、対象の失敗を望む気持ちだけでなく、自分の判断を宙に浮かせたままにしたくない気持ちも含まれています。
人は、自分の選択をできるだけ正しいものとして受け止めたいと考えます。過去の記事でも触れたように、選択の結果は、自分の判断力や現在の自分に対する評価と結びつきやすいものです。
そのため、対象がその後どうなったのかという事実を使って、自分が離れた選択に対する答えを導き出そうとすることがあるのです。
「飽きて離れた」ときには同じ感情が生まれにくい
ただ、離れたコンテンツのすべてに「失敗してほしい」と思うわけではありません。
たとえば、単に飽きて離れた場合は異なります。
この場合、対象との関係は自然に終わっています。自分の関心が別のものへ移っただけで、相手に非があるわけでも、離れた判断を正当化する必要があるわけでもありません。
ところが、失望して離れた場合、関係が終わったあとにも「問い」が残ります。それは、自分が感じた違和感は妥当だったのか、相手が変わってしまったのか、それとも自分が期待しすぎていただけなのか……。
そのような問いです。
対象がその後も支持されている限り、この問いにはっきりとした答えは出ません。多くの人が楽しみ続けている姿を見ると「問題だと思ったのは自分だけだったのではないか」という疑いも生まれます。
つまり、対象の失敗を待ってしまうのは、まだその失望に決着がついていないからとも言えます。
飽きは「関心の終わり」ですが、失望にはかつて抱いていた「期待の残骸」があります。期待が大きかったぶんだけ「なぜこうなったのか」という納得できなさも残りやすいのです。
失望した相手の成功がなぜ気になってしまうのか
自分の失望だけが取り残されたように感じる

見限った対象が成功を続けていると、自分だけがその場から取り残されたように感じることがあります。
対象は以前と変わらず活動し、周囲の人も楽しそうに応援している。それなのに、自分の中には失望や怒りが残り、以前と同じようには楽しめなくなっている。
この状況では、成功している相手が憎いというより、自分が経験した失望だけがどこにも回収されていないことが苦しくなっていきます。
多くの人が支持していることと、自分が受け入れられなかったことは、本来なら両立する状況です。しかし、自分の感覚に確信を持てないときには、変わらず支持され続けているという状況が「あなたのほうが間違っていた」と断罪しているように見えることがあります。
だからこそ、その対象に何か問題や失敗が起こったときには安心します。自分と同じように失望する人が増えれば、ようやく自分の感じていたことが社会の側から認められたように思えるからです。
相手の失敗が自分の物語を完成させてくれる
対象の失敗は、自分が抱えてきた感情にひとつの筋書きを与えます。
「あのとき離れた自分は正しかった」
「自分は早くから問題に気づいていた」
それまで曖昧だった失望が、相手の失敗によって「当然の反応だった」と結論付けられます。傷ついたことや怒ったことにも理由が与えられ、自分の中でその出来事がようやく完結するのです。
これは、一般的に語られる「成功者が落ちていく姿を見たい」という欲求だけでは説明できないものがあります。
この感情は、単に相手の不幸を楽しみたいという欲求ではありません。相手が落ちることで、自分の判断と感情を救おうとする自己防衛のひとつなのです。
そのため、相手に衰退の兆候が見つからない間は、いつまでも救われることがありません。すでに離れたはずの対象が気になり、ときどき現在の様子を確かめてしまうのは、その結末を、救済をまだ待っているからでもあります。
反転アンチはなぜ好きだった対象を攻撃するのか
好きだったぶんだけ「裏切られた」という感覚が強くなる

さて、ここまで見てきた感情は、反転アンチに限られたものではありません。失望して離れた対象の失敗を少し期待してしまう程度なら、心当たりのある人もいるでしょう。
いわゆる「反転アンチ」は、そこへさらに「裏切られた」という強い怒りが加わります。
反転アンチは、最初からその対象を嫌っていたわけではありません。
以前は好意を持ち、期待を寄せ、ときには時間やお金を費やしてきた人です。対象がこれからどうなっていくのかを楽しみにし、その世界の一部に自分も参加しているような感覚を持っていたこともあるでしょう。
だからこそ、期待とは異なる方向へ進んだとき、それを単なる変化として受け止められないことがあります。
自分が好きだったものを失っただけでなく、自分たちが支えてきたものを奪われた。大切にしてきた気持ちを、相手から軽く扱われた。そうした感覚が生まれると、失望は「好みに合わなくなった」という話では収まらなくなります。
もちろん、実際に運営や本人の側に問題がある場合もあります。批判する人が反転アンチだからといって、最初に抱いた違和感や怒りまでもが不当だったとは限りません。
問題となるのは、批判そのものではなく、その出来事をきっかけに対象から離れられなくなっていくことです。
「好きだった自分」まで否定されたように感じる
好きだった対象に失望すると、疑いの対象は相手だけでなく過去の自分にも向かいます。
なぜ自分はこの対象を信じていたのか、ここまで費やした時間や気持ちは何だったのか……。
相手を高く評価していたぶんだけ、その評価が崩れたときには、自分の見る目まで疑わしく思えてきます。対象を見限ることはできても、それを好きだった過去まで簡単に切り離すことはできません。
反転アンチが相手の失敗を強く求めるのは、現在の自分を正当化するためだけではありません。かつて好きだった自分を、「見る目がなかった人」にしないためでもあります。
相手があとから大きな問題を起こせば、自分の評価が間違っていたのではなく、相手が変わってしまったのだと考えられます。あるいは、当時は見えなかった問題を「自分は途中で見抜ぬくことができた」という物語にもできます。
相手を否定し続けることが、過去の自分を守る行為にもなっている。
この複雑さが、無関心になって離れる人と、反転アンチとして攻撃を続ける人を分けるもののひとつです。
攻撃することで「自分は正しかった」と証明しようとする
過去の自分を守ろうとする気持ちは、相手を批判するだけでなく、その批判を周囲に伝えようとする行動にもつながります。
自分がなぜ失望したのかを知ってほしい。まだ応援している人にも、相手の問題に気づいてほしい。そう考えている本人にとって、発信は必ずしも嫌がらせではありません。間違った評価を正し、見過ごされている問題を知らせる行為として認識されていることもあります。
とくに、以前から対象をよく知っている人ほど、「昔から見てきた自分だから分かる」という自負を持ちやすくなります。かつてファンだった事実が、批判の説得力を支える根拠になるのです。
ここに正義感が加わると、攻撃をやめる理由はさらに見つけにくくなります。相手を傷つけたいから批判しているのではなく、真実を伝えるために批判しているのだと考えられるからです。
最初に抱いた失望や問題意識が妥当だったとしても、それが現在のあらゆる攻撃を正当化するとは限りません。しかし本人の中では、過去に傷ついた側であることと、現在も正しい側にいることが結びついています。
離れたはずなのになぜ見続けてしまうのか
対象との関係が終わったのではなく形を変えて「続いている」

本当に関心を失ったのであれば、対象の発言や人気の変化を細かく追うことはありません。
ところが反転アンチは、新しい活動を確認し、数字の変化を追い、ときには現在のファンよりも詳しく事情を把握していることがあります。嫌いになったはずなのに、注意も時間も向け続けているのです。
これは、対象との関係が完全に終わったのではなく、形を変えて続いていると考えると理解することができます。
以前は「応援する対象」として結びついていた。現在は「問題を監視し、批判する対象」として結びついている。好意が怒りに変わっても、対象が自分の中で大きな位置を占めていることには変わりありません。
そして、相手が失敗すれば自分の感情に決着を付けられると思うほど、その結末を見届けたくなります。大きな失敗が起きなければ、小さな数字の変化や些細な発言から、衰退の兆候を探すようになることもあります。
本来は対象から離れるために始まった批判が、いつの間にか対象を見続ける理由になってしまうのです。
SNSは反転アンチをどのように過激化させるのか
同じ失望を持つ人たちが、お互いの正しさを保証し合う
一人で失望している間は、「自分の受け取り方がおかしかったのではないか」という迷いが残ります。しかし、SNSで同じ対象を批判する人に出会うと、自分の感覚が認められたように思えます。
自分と同じことを感じた人がいる。それだけでも安心できますが、似た意見に繰り返し触れているうちに、「多くの人が問題視している」「以前から明らかにおかしかった」という確信へ変わっていきます。
SNSでは、怒りや告発のように感情を動かす投稿ほど反応を集めやすくなります。批判的な投稿を読み、それに反応し、同じ立場の人を追うようになれば、さらに似た情報が目に入るようになります。
ただし、これはSNSによって考えを植えつけられるというような単純な話ではありません。自分の判断を裏づける情報を求める心理と、反応した情報に触れやすくなる環境が噛み合うことで、確信が強化されていくのです。
また、批判を通じて仲間や反応を得られるようになると「問題を指摘する人」という新しい居場所が生まれます。
その集団の中では、対象を擁護する意見を「何も分かっていないファンの言葉」と退けやすくなります。一方で、より強い批判や新しい問題点を示した人ほど注目される。
この状態が続けば、最初は限定的だった批判が、対象のすべてを否定する言葉へと過激化していくこともあります。
批判することと、相手の失敗を必要とすることは違う
離れた理由まで否定する必要はない
さて、ここまで反転アンチの心理を考えてきましたが、念のためお伝えしておきと、必ずしも失望した側に問題があるとは限りません。
先ほども少し触れましたが、実際に不誠実な対応があったのかもしれません。受け入れがたい変化や、その対象に明確な問題があったのかもしれません。離れた理由が正当だったかどうかということと、その後も相手の失敗を待ち続けることは本来別の問題です。
相手を許したり、自分の怒りをなかったことにすべきと言っているわけではありません。
ただ、相手が報いを受けなければ自分の判断を肯定できない状態になると、自分の納得はいつまでも相手の未来に左右されてしまいます。
相手が失敗しなくても、自分が離れた判断は成立する
対象がその後も成功しているからといって、自分の失望が間違いになるわけではありません。
他の人が楽しんでいることと、自分には受け入れられなかったことは両立します。世間から支持されている対象を離れることも、世間から批判されている対象を好きでいることも、本来はその人自身の感覚に属するものです。
相手の失敗を待っているとき、判断の基準は自分の感覚ではなく自分の外側にあるものへ移っています。自分が感じた感覚や違和感ではなく、対象のその後の人気や世間の評価によって、自分の選択を確定しようとしているからです。
私たち松果体開花研究所では、こうして外側の評価に埋もれた自分の感覚を、もう一度内側へ取り戻していくことを「松果体の開花」という言葉で表現することがあります。
相手がどうなったかによって自分の感情を決めるのではなく、「自分はあのとき、受け入れられないと感じた」と認める。この感覚は、対象が失敗しても成功しても、たしかに存在していてよいものです。
これは、自分の選択を無理に正解だと思い込むことではありません。相手の結末とは切り分けて、自分が離れた理由を自分のものとして、自分にとって正しいことだったと受け止めるということです。
おわりに
反転アンチとは、好きだった対象をただ嫌いになった人ではなく、その対象との関係にまだ決着をつけられていない人なのではないでしょうか。
大きな期待を向けていたからこそ、失望したときには裏切られたと感じます。費やしてきた時間や、好きだった過去の自分を守るためにも、相手の失敗が必要になります。
しかし、相手が落ちる日を待つほど、自分の納得は相手に委ねられたままになります。
対象が失敗しなくても、自分が感じた失望は消えません。ほかの人が応援を続けていても、自分が離れた理由まで失われるわけではありません。
相手がどのような結末を迎えるかとは別の場所で、自分の感覚を認めることができたとき、ようやくその対象との関係も終わっていくのだと思います。

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