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なぜ人は炎上に参加するのか?「悪い人なら叩いてもいい」が生まれる心理

SNSでは、何か問題を起こした人に対して「叩かれて当然」「自業自得」といった言葉が向けられます。

最初は発言や行動への批判だったはずが、やがて容姿や家族、過去の出来事まで攻撃の材料にされることもあります。

なぜ、問題を指摘するだけでは終わらなくなるのでしょうか。

過剰な炎上に参加する理由の一つは、相手を「悪い人」と認定することで、自分の攻撃まで正しい制裁に見えるからです。さらにSNSでは、同じ相手へ怒る人から賛同が集まり、自分が正しい側にいることも確認できます。

問題を正したいという気持ちは、どこから相手を苦しませたい気持ちへ変わるのか。この記事では、炎上を過激にする「正義による免責」について考えていきます。

目次

なぜ人は炎上に参加するのか

悪い人への攻撃なら自分も悪者にならずに済むから

過剰な炎上に参加する人は、相手を攻撃したいという気持ちだけで動いているわけではないはずです。本人の中ではむしろ、悪いことをした人間に相応の責任を求めているという意識のほうが強いでしょう。

人には、自分が直接被害を受けていなくても、不当な行為をした人を罰したいと感じる心理(第三者罰)があります。誰かを傷つけた人が何の責任も問われず、それまでどおりに過ごしているのを見れば、納得できないと感じるのは自然な反応です。

こうした怒りは、見過ごされていた被害を明らかにしたり、同じ問題が繰り返されるのを防いだりする働きも持っています。SNSでの批判がきっかけで、企業や著名人が初めて問題に向き合うということも実際に起きています。

一方で、「相手が悪い」という判断・気持ちは、もう一つの働きをもたらします。

それは、普段ならためらうような言動でも、「この人はそれだけのことをした」と思っていると行動に起こしやすくなるという現象です。これによって、強く批判している最中も「誰かを傷つけている」という感覚が薄れていきます。自分がしているのは攻撃ではなく、あくまでも悪いことへの制裁なんだと捉え直すことができるからです。

炎上には、相手を攻撃しながら自分は善い側にいられるという構造があります。炎上を生んでいるのは正義感そのものというより、正義が自分の攻撃を許す理由に変わることで、言葉の歯止めが利きにくくなっていく、その過程なのかもしれません。

なぜ正当な批判が過剰な制裁へ変わるのか

理由①「問題の行動をした人」が「攻撃してよい人」に変わるから

炎上の初期には、批判の対象が比較的はっきりしています。誰かを傷つける発言をした、商品の説明に嘘があった、立場を利用して不当な扱いをした。こうした具体的な問題について、何が悪かったのか、どんな対応が必要なのかが話されている段階です。

しかしこの批判の対象は、炎上が大きくなるにつれて、行為そのものから、その人自身へと広がっていきます。

「こんな発言をする人間は信用できない」という評価が生まれ、過去の言動や交友関係まで調べられるようになる。容姿を笑ったり、家族や仕事へ攻撃を加えたりしても、「そもそも本人が悪い」という理由で正当化されてしまいます。

こうなると、最初に起きた問題そのものはもう重要ではありません。相手がどれほどの悪人であるかを証明する材料が次々と集められ、その評価にふさわしい苦痛を与えることのほうが目的になっていきます。

問題のある行為を批判することと、その人を丸ごと攻撃の対象にすることの間には、本来なら境界があるはずです。ただ、一度「何を言われても仕方がない人」と見なされてしまえば、その境界はいとも簡単に越えられていきます。

理由② 自分が攻撃した責任を相手に転嫁できるから

炎上では、対象となった人物に対して、自分の行為に責任を負うよう厳しく求めます。

誰かを傷つけたなら、その結果を受け入れなければならない。問題のある発言をしたなら、批判から逃げてはいけない。この主張自体には筋が通っています。

一方で、批判する側自身が攻撃的な言葉を使ったことについては、しばしば別の基準が持ち出されます。

「叩かれるようなことをした本人が悪い」
「原因を作ったのは相手だ」
「何もしていない人には、こんなことを言わない」

この基準に基づくと、自分の言葉さえも相手の行為が招いた結果になります。攻撃を選んだのは自分ではなく、相手の問題によってそうさせられただけだ、ということになるのです。相手には自己責任を求めながら、自分が行った攻撃の責任は相手へ戻す。そういう都合のいい構図がここに生まれます。

炎上のきっかけを作ったのが本人であることは、多くの場合事実でしょう。けれど、誰かが問題を起こしたことと、それを知った人がどんな言葉を選ぶかは、本来別の話です。相手に非があっても、自分が選んだ攻撃まで相手の責任になるわけではありません。

それでも、正義の側にいるという意識が強くなるほど、自分の言葉は見えにくくなっていきます。相手の行為には厳しい目を向けられても、自分自身がどこまで過激になっているのかは、案外確かめにくいものです。

なぜ炎上は「もう十分」で止まらないのか

問題の解決より、相手が十分に苦しんだかが重視されるから

問題を正すことが目的であれば、求める対応にもいったんの終わりは見えているはずです。

発言を撤回する、被害を受けた人へ謝罪する、必要な処分を受ける、同じことを繰り返さないよう対応を変える……こうした変化が積み重なれば、本来、問題は解決へ向かうはずです。

しかし、炎上が過熱していくと、本人が何をしても「まだ足りない」と受け取られる状態になっていきます。

謝罪文が短ければ反省が足りないと言われ、詳しく説明すれば言い訳だと批判される。活動を続ければ反省していないと見なされ、休止すれば逃げたと言われる。仕事を失っても、本人が十分に落ち込んでいるように見えなければ、それすら納得されません。

こうなると、求められているのは問題を改善するための具体的な対応ではなく、相手が罰を受けたと実感できる状態そのものです。何をすれば反省したことになるのか、どこまで失えば十分なのか。その基準はどこにも決められていません。だから制裁には、明確な終わりが訪れないのです。

攻撃の効果は積み重なっても参加者の責任は分散するから

炎上を止まりにくくするもう一つの理由は、一人ひとりが「自分の与えた影響」を小さく感じられることにあります。

一人が書き込むのは、短い批判や一度の引用投稿だけかもしれません。書き込んだ本人からすれば、すでに多くの人が言っていることに、自分も一言加えただけのつもりです。

けれど、何千人分の「一言」は、すべて同じ一人のもとに集まります。同じ批判を一日中浴びせられ、過去の投稿を調べられ、仕事先や家族にまで連絡が届く。受け手にとっては生活を揺るがすほどの攻撃になっていても、参加者の側は、自分がしたことを全体のごく一部としてしか捉えていません。

周囲がさらに強い言葉を使っていれば、自分の投稿はむしろ穏当なものに見えてくるでしょう。

「自分だけではない」「これくらいなら問題ない」

そう思える限り、集団としては過剰になっていても、個人が加害している実感は生まれにくいままです。

攻撃の効果は一人のもとへ積み重なり、責任は大勢のあいだへ散らばっていく。誰も自分が相手を追い込んだ中心人物だとは思わないまま、制裁だけが膨らんでいきます。

なぜ同じ人が炎上へ繰り返し参加するのか

正義を表明すると仲間から肯定される

一つの炎上が落ち着くと、また別の炎上へ加わる人がいます。

対象や問題は変わっても、同じように強い言葉で批判を続けている。もちろん、さまざまな社会問題に関心を持ち、その都度声を上げているだけの人もいるでしょう。そうではなく、問題解決の範囲を越えて相手を攻撃し、別の炎上でも同じ行動を繰り返しているとしたら、参加すること自体から何かを得ている可能性があります。

SNSで怒りを表明すると、同じ考えを持つ人から反応が返ってきます。投稿が共有され、「よく言ってくれた」と賛同される。そこで得られるのは、自分の意見への評価だけではないはずです。

誰かを批判することで、

「自分はそんなことをしない」
「自分は問題を見過ごさない」
「自分は傷つけられた側を理解している」

と示すこともできてしまいます。炎上への参加は、問題を起こした人について語る行為であると同時に、自分がどちら側の人間なのかを表明する行為にもなっているのです。

普段抱えている不満を口にしても、誰かが共感してくれるとは限りません。仕事への苛立ちや生活の閉塞感、社会への不信は、原因が複雑で、ぶつける相手もはっきりしないものです。その点、炎上している人には、すでに「この人が悪い」という共通認識があります。もともと抱えていた怒りを重ねても、自分だけが攻撃者として責められる心配はあまりない。むしろ強く怒るほど、正義感のある人として受け入れられることさえあります。

炎上した本人が、参加者の日常的な不満を生み出したわけではありません。それでも、「怒りを向けてよい相手」にはなれてしまう。そこに、この構造の厄介さがあります。

炎上ではなく一連の流れが習慣になる

怒りを向けてもよい相手を見つけ、正しい側から批判し、仲間の反応を受け取る。この経験が重なるほど、新たな問題を見つけたときにも同じ行動を取りやすくなっていきます。

ここで習慣になっているのは、炎上そのものというより、

敵を見つけ、正義を表明し、仲間から肯定される流れ

そのものだと考えられます。行き場のなかった怒りを放出しながら、自分が善い側にいることも同時に確認できる。それがこの流れの特徴です。一つの炎上が終わっても、別の対象さえ見つかれば、同じ感覚をもう一度得られます。

本来、問題を解決することが目的であれば、必要な対応が終わった時点で関心は薄れていくはずです。それでも次々と新しい対象を探し続けているとしたら、個々の問題への関心より、炎上に参加することで得られる感覚のほうが、その人の中で大きくなっているのかもしれません。

正当な批判と過剰な制裁は何が違うのか

被害を止めたいのか、相手を苦しませたいのかで分かれる

問題を起こした人を批判すること自体が、悪いわけではありません。

声を上げる人がいたからこそ、隠されていた被害が知られ、企業や権力者が対応を改めた例もあります。被害を受けた本人が強い怒りを表すこともありますし、言葉が穏やかではないというだけの理由で、その訴えを過剰な攻撃だと決めつけることもできません。

では、正当な批判と過剰な制裁を分けるものは何かといえば、言葉の強さよりも、何を目的にしているかです。

被害を止めることが目的なら、問題となった行為が改められたか、同じことを繰り返さない対応が取られたか、被害を受けた人が必要な支援を得られたか、そこに関心が向かいます。

一方、相手への制裁が中心になると、問題への対応が進んだあとも攻撃は終わりません。本人が仕事を失ったか、復帰できない状態になったか、十分に落ち込んでいるように見えるか。関心はそちらへ移っていきます。

被害を受けた人への関心が薄れ、相手が苦しむ様子ばかりを求めるようになったとき、批判の目的はすでに変わり始めていると言っていいでしょう。

相手が悪くても、自分の言葉の責任は残る

批判と制裁欲を、外から完全に見分けることはできません。

声を上げている本人の中にも、問題を正したい気持ち、被害への怒り、相手を罰したい気持ちが混ざり合っているものです。

だからこそ、自分の言葉によって何が変われば納得できるのかを確かめてみることが、境界を見失わないための手がかりになります。被害が止まり、必要な対応が取られれば終われるのか。それとも、相手がさらに苦しむところまで見届けたいのか。

怒りの中に制裁したい気持ちが混じっていても、それだけで問題への怒りそのものが間違いになるわけではありません。ただ、その気持ちを正義と同じものとして扱ってしまえば、自分の攻撃だけが見えなくなっていきます。

おわりに

炎上に参加する人のすべてが、誰かを攻撃したくて集まっているわけではありません。被害を止めたい人も、問題を広く知らせたい人も、正当な責任を求めている人もいます。

それでも、「相手が悪い」という判断は、ときに自分の攻撃までも正しいものに変えてしまいます

相手の行為には厳しく責任を求めながら、自分が向けた言葉については「相手が悪いから」と責任を戻す。問題が解決したかではなく、相手が十分に苦しんだかを求める。そこまで進んだとき、批判はもはや問題を正すためのものではなく、正義によって許された攻撃に近づいています。

相手が悪いことと、自分が正しいことは、同じではありません。

問題を起こした人に責任を求めるとしても、その人へどんな言葉を向けるのかは、自分の側にだけ残された責任です。

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