最近、SNSで「冷笑系」という言葉を目にする機会が増えました。
しかし、盛り上がる人を醒めた態度で眺め、「分かっていない側」に置くような言動は、以前からネット上に存在していました。変わったのは、その態度に名前がついたことです。
冷笑とは、単に否定的な感想を述べることではありません。
対象を楽しむ人を「浅い側」に置き、自分を「分かっている側」へ置こうとする働きがあります。
一方で、冷静な指摘まで冷笑と呼ばれ、今度は「冷笑系」と指摘する側が優位に立つ場面もあります。
この記事では、冷笑と批評の違い、その言葉がネット上につくる上下関係について考えていきます。
冷笑系とは何を指すのか

否定的な感想を言うだけでは冷笑にならない
冷笑系とは、醒めた態度から相手を嘲り、自分のほうが物事を分かっているように振る舞う人を指す言葉です。
ただし、否定的な感想を述べること自体が冷笑なのではありません。
多くの人が面白いと評価しているものでも、自分には面白さが分からないこともあると思います。周囲が盛り上がっているからといって、必ずしもそれに同調して肯定的な反応をする必要はありません。
また、現実の日常生活では、本音と建前を使い分ける場面が多くあります。だからこそ、匿名のネットでは面白くないものを面白くないと、そのまま本音をぶつけたくなることもあるでしょう。
では、普通の否定的な感想と冷笑は、どこで分かれるのでしょうか。
たとえば「自分には面白さが分からなかった」という言葉は、自分と対象の関係を語っています。
それに対して、「こんなもので笑える人がいるんだ」という言葉は、対象だけでなく、それを楽しんでいる人まで評価しています。

冷笑らしさが生まれるのは、この移動です。
自分は面白いと思わなかったという感想から、面白いと思った人は浅いという評価へ進む。
さらに、そんな人たちとは違う自分を、相対的に上の位置へ置く。
否定的な感想を持つことよりも、その感想を使って人のあいだに上下関係をつくることに、冷笑の特徴があります。
冷笑は、対象よりも楽しんでいる人に向けられる
冷笑という現象の中には、冷笑する人と冷笑される対象だけでなく、その対象を楽しんでいる人が存在します。
表面上は作品や発言を否定しているように見えても、実際に冷水を浴びせられるのは、それを楽しんでいる人たちです。
本当に対象への感想だけを述べたいのであれば、その場から離れることも、自分には合わなかったと説明することもできます。それでも盛り上がっている最中に短い否定を差し込む行為には、「自分はこの空気に流されていない」という意思表示が含まれます。
自分はこれでは笑わない。
自分はこの程度のものを評価しない。
そう示すことで、その場に参加している人たちとの違いを作り出します。
もちろん、冷笑する人が毎回明確に「楽しんでいる人を不快にさせたい」と考えているとは限りません。しかし、盛り上がっている場所へ否定的な一言を投げ込めば、その言葉は対象だけでなく、それを楽しんでいる周囲の人にも届きます。
冷笑は対象について語る言葉であると同時に、対象を楽しむ人との位置関係を示す言葉でもあるのです。
なぜ冷笑する人は「分かっている側」に立ちたがるのか
冷笑は、もっとも少ない負担で優位に立てる
冷笑が使われるのは、自分の考えを詳しく示さなくても「分かっている側」に立てるからです。
何かを面白いと評価する場合は、どこに魅力を感じたのかを問われることがあります。問題点を批評する場合にも、何が問題なのか、なぜそう考えるのかを示す必要があります。
一方で、「おもんな」「どうせ失敗する」というような冷笑は、自分の価値観をほとんど差し出さずに済みます。
自分なら何を面白いと思うのか、どのような状態なら評価できるのか、そこまで説明せずとも、相手を無理やり下へ押しやり、相対的に自分の位置を高くすることができるのです。
つまり冷笑とは、ある意味では、もっとも少ない負担で自分を「分かっている側」に置ける言動とも言えるでしょう。
対象を深く理解している必要はありません。何が問題なのかを論証する必要もありません。盛り上がっている人たちから一歩引き、その様子を醒めた目で見るだけで、全体を見通しているような立場を取れます。
しかし、距離を取っていることと、深く理解していることはイコールではありません。
外側にいる人が必ず全体を見渡せているわけでも、内側で熱中している人が何も考えていないわけでもありません。それでも冷笑においては、「参加していないこと」そのものが、「流されていないこと」や「分かっていること」のように扱われます。
外れたときの責任を負わなくてよい
また、冷笑には、自分の判断が外れたときの責任を負いにくいという特徴もあります。
対象が失敗すれば、「やっぱり」と言えます。反対に、成功したとしても、以前の言葉について詳しく説明する必要はほとんどありません。もともと明確な予測や根拠を示していないためです。
何かを信じた人は、期待が外れれば見る目を疑われることがあります。面白いと言った人は、自分の感性を表に出しています。しかし、最初から醒めた一言だけを残した人は、自分が何を信じ、何を評価するのかを明らかにしていません。
何も差し出していないため、失うものも少ないのです。
相手を評価する側には立ちながら、自分が評価される材料はほとんど渡さずに済む
この構造的な安全も、冷笑の使いやすさにつながっています。
相手が反応すると、その反応まで冷笑の材料にできる
冷笑された側が反論したときにも、冷笑する人は有利な位置を保てます。
強く反論すれば「効いている」、真剣に説明すれば「必死になっている」と、その反応自体を笑う材料にできるからです。
一方、自分の言葉が攻撃的だったと指摘された場合には、「率直な感想を言っただけ」「冗談なのに」と意味を小さくすることもできます。
敵意を伝えながら、いざという時にはそれが敵意だったとは認めないで済む。相手が感情を示せば、その感情を「余裕のなさ」の証拠として扱える。
この逃げ道があることも、冷笑を使いやすくしています。
これが批評であれば、自分が示した主張について反論を受ける必要があります。しかし冷笑は、明確な主張を避けたまま、相手との上下関係だけを作れます。
その意味では、冷笑とは、責任を負わずに行える序列化とも言えます。
冷静な指摘と冷笑は何が違うのか
冷静な指摘は「何を問題にしているのか」を示すもの
冷静な指摘も、盛り上がっている空気に水を差すことはあります。
多くの人が評価しているものに問題点を示せば、否定的な人、空気が読めない人と思われることもあるでしょう。しかし、肯定的な空気に同調しないというだけで、冷笑になるわけではありません。
冷静な指摘では、何を問題だと考えているのかが示されます。なぜそう考えるのかという理由があり、その主張に対する反論を受ける立場にも立っています。
それに対して冷笑では、対象の問題を明らかにすることよりも、自分がその対象に夢中になる人間ではないと示すことが重視されます。
両者の違いは、言葉の温度感ではありません。
感情的に批判したから冷笑になるわけでも、落ち着いた表現なら冷笑にならないわけでもありません。
注目したいのは、
対象を楽しんでいる人より上の位置に立とうとしていないか
という点です。
冷笑は「誰が上で、誰が浅いのか」を示す
冷静な指摘と冷笑を分ける目安のひとつは、「誰が上で、誰が浅いのか」が中心になっているかどうかです。
冷静な指摘は、対象について語ります。「何を問題だと思っているのか」についても語ります。
一方で、冷笑は、対象を楽しみ、信じ、期待している人までもを評価します。
もちろん、両者を完全に切り分けることはできません。正当な指摘に嘲るような表現が混じることもあれば、冷笑的な言葉の中に妥当な問題提起が含まれていることもあります。
それでも、対象の問題より、それを支持する人の感性や理解力を低く扱うことが中心になっているなら、その言葉は批評よりも冷笑に近づいていると言えるでしょう。
冷笑の目的は、対象を理解することではありません。
対象を楽しむ人を「分かっていない側」に置くことで、自分が「分かっている側」にいると示すことにあるのです。

冷笑する人も、別の何かには熱中している
否定しているのは、熱中そのものではない
一方で、冷笑する人がいつでも冷めているとは限りません。
ある作品や界隈を冷笑する一方で、別の対象には強い情熱を向けていることもあります。その人にとって価値のあるものなら、熱心に情報を追い、感想を語り、ときには批判から守ろうとすることもあるでしょう。
この場合、否定しているのは熱中という行為そのものではありません。自分が価値を認めていない対象へ熱中することを、浅い、騙されている、流されていると評価しているのです。
自分が好きなものへの熱中は、価値を理解したうえでの正当な評価。それに対して、他人が別のものに向ける熱中は、流行や宣伝に乗せられた結果として扱う。
この分け方をすれば、自分は何かに夢中になりながら、他人の熱中を冷笑することもできます。
「本気になる人が浅い」のではありません。「そんなものに本気になる人は浅い」という判断なのです。
自分の感性を基準に、他人の熱中を序列化する
冷笑では、対象への評価が、そのまま人への評価に広がります。
ある作品を面白いと思うかどうかは、本来なら個人の感性に属するものです。しかし、冷笑する人が「自分の感性」を基準にすると、その作品を楽しめる人まで「見る目がない側」に置かれます。
自分には価値が分かる。
相手は価値のないものに踊らされている。
この位置関係ができれば、自分の好きなものや感性も、相対的に優れたものとして感じられます。
だからこそ、冷笑は、単なる無関心とは異なるものでもあります。
興味がなければ、その場から離れることもできます。それでも盛り上がっている場所に言葉を投げ込み、楽しんでいる人へ冷水を浴びせようとするところには、自分と相手のあいだに線を引きたい気持ちがあります。
自分はそちら側ではない。
自分は、その盛り上がりを外から評価できる側にいる。
対象を否定すること以上に、この立ち位置を示すことが冷笑の役割になっています。
「冷笑系」という言葉は何を変えたのか
熱中する側が上下関係をひっくり返せるようになった
冷笑的な言動自体は、この言葉が流行する以前からネット上にもありました。
しかし、「冷笑系」という名前が広がったことで、それを受ける側も態度そのものを指摘しやすくなりました。
これまで冷笑する人は、熱中している人を「分かっていない側」に置くことができました。
相手が反論すれば「必死になっている」、怒れば「余裕がない」と笑えるため、熱中する側は言い返すほど不利になりやすい構造でした。
しかし、冷笑系という言葉を使えば、
「それは鋭い指摘ではなく、醒めた態度で上に立とうとしているだけではないか」
と切り返すことができるようになります。

この関係において、冷笑する側は全体を見通している人ではなく、何かに本気になる人を外から笑うことでしか優位に立てない人として捉え直されます。
冷笑する人が「分かっている側」、熱中する人が「分かっていない側」という従来の上下関係を、ひっくり返せるようになったのです。
「分かっている側」を争うゲームに、新しい札が加わった
ただし、冷笑系という言葉が広がったことで、上下関係をめぐる争いそのものがなくなったわけではありません。
冷笑する側は、熱中している人を「流されている」と評価する。
冷笑された側は、相手を「冷笑系」と呼び、「醒めている自分に酔っているだけ」と評価する。
どちらも、相手の言葉の中身に答えるより先に、相手を「分かっていない側」へ置くことができます。
つまり現在は、「どちらが分かっている側なのか」を争うゲームに、「冷笑系」という新しい札が加わった状態とも考えられます。
冷笑を名づける言葉は、熱中する人を一方的な嘲りから守るために役立ちます。
一方で、その言葉自体が、相手より上に立つための道具にもなり得ます。
冷笑に対抗するための言葉が、別の冷笑へ変わる可能性もあるのです。
正当な批判まで「冷笑系」と片づけられる
冷笑系というラベルの範囲が広がると、肯定的な空気に水を差す発言が、まとめて冷笑として扱われることがあります。
問題点を具体的に指摘していても、盛り上がりに同調しないというだけで「冷笑系」と呼ばれてしまう。そうなれば、批判された側は、その内容について考えなくても済みます。
これは、冷笑する人が対象を楽しむ人を「浅い」と片づける構造とよく似ています。
相手の主張を検討せず、どのような人間なのかを先に決める。
そのラベルによって、言葉の中身を聞く必要がないものとして扱う。
冷笑という言葉を知ったからといって、何が冷笑で何が批評なのかを自動的に判断できるわけではありません。
相手の態度に嘲りが含まれているかどうかと、そこで指摘されている問題が妥当かどうかは、分けて考える必要があります。
冷笑のゲームから離れるために考えたいこと
否定的な感想まで手放す必要はない
さて、冷笑から離れるといっても、何でも肯定する必要はありません。
面白くないものを面白くないと感じてもよいでしょう。
多くの人が評価しているものでも、問題だと感じたら異なる意見を述べても問題はありません。
ここで考えたいのは、否定的な感想を持つこと自体ではなく、その評価が人の格付けまでしてしまっていないかという点です。
自分には面白くなかったからといって、それを楽しむ人が浅いということは本来できません。
この二つを切り分けられれば、本音や批判を手放すことなく、上下関係をつくる冷笑からは距離を取ることができます。
反対に、相手を冷笑系と呼びたくなったときにも、その言葉が何を指摘しているのかは考えるべきでしょう。
相手の態度が気に入らないからといって内容を見ずに退けてしまうのは、こちらもまた、ラベルによって相手を下の位置へ置くことになります。
どちらが上で、どちらが分かっているのか。その争いから少し離れ、自分は対象をどう感じたのか、相手は何を問題にしているのかを分けて確かめるということが重要です。
外側の評価に引っ張られず、自分の感覚へ戻ることは、私たち松果体開花研究所が「松果体の開花」という言葉で表しているものともつながっています。
ただし、自分の感覚を大切にすることと、自分の感性を使って他人を序列化することは決して同じではありません。
自分には合わなかった。けれど、ほかの人が楽しむことまで否定する必要はない。
その境界をしっかりと理解して持っておくことが、「分かっている側」を争う冷笑ゲームから距離を取る一つの方法になります。
おわりに
冷笑とは、単に否定的な感想を述べることではありません。
冷笑は、対象を楽しんでいる人を「浅い側」に置くことで、自分を「分かっている側」へ置く行為です。しかも、自分が何を評価しているのかを詳しく示さず、反論されれば冗談や感想だったことにもできます。
だからこそ冷笑は、少ない負担で上下関係をつくれる言動として、以前からネット上に存在してきました。
しかし、現在は「冷笑系」という言葉によって、その上下関係を反転させることもできるようになりました。その結果、冷笑する側と、冷笑を指摘する側が「どちらが本当に分かっているのか」を争う状態も生まれています。
何かを批判することも、周囲と違う感想を持つことも、本来は冷笑ではありません。
その言葉は、対象について語ろうとしているのか、それともその対象を楽しむ人との上下関係をつくろうとしているのか。
冷笑と批評を分けるものは、意見の温度ではなく、その言葉がどこへ向けられているかにあるのだと思います。

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